悪足掻きというものほど醜いものは無いのだと美学且つ完璧に拘る男は言ったのだが、どうも俺にはそれは現実味を欠いたものに聞こえた。 木刀を音を立てずに床に置き、その側に今度は盛大な音を立てて座り込む。誰も居ない広大な道場が途轍もなく物寂しいものに見えた。 溜息をついて、汗でぐっしょりと濡れた前髪を掻き上げた。俺は生まれてこの方ずっと足掻いてきた。蹴落とされようが蔑まれようが前だけ見て眉間に皺を寄せて、鬼の面を作った。強さだけ求める。 俺に悪足掻きは醜いと言った男は頭も良くその見た目も眉目秀麗で腕も確か、本来この言葉を使うのは非常に抵抗があるのだが、恐らく俺が知る人物の中で最も「完璧」に等しい人物は彼だけなのであろう。 まあその男は俺たちの目の前に二度と現れないであろう。遠い所に行ってしまったのだと皆黙って頷いた。もう一度大きく溜息を零して、立ち上がる。 木刀を無造作に元ある位置に戻し、それからぼんやりと道場の縁側に座った。右を見れば、まだ汗を掻いていない、氷の浮く水が用意してある。 それを一気に飲み干し、この水をくれる人は誰なのだろうかと思考を巡らせた。 いつも俺が稽古を終わらせると縁側に入れたての冷たい水が置いてある。 元来暑さに弱く汗を多分にかく俺にとって、それは神の恩恵に等しく、感謝しているので、一体誰が置いてくれているのか知りたいところである。 以前賄いの者に聞いた事があるが、「ああ、多分、原田さんではありませんか? 先程道場の方へ向かいましたから」と言われたので原田を捕まえてみたものの、原田には全く覚えが無いという。そうして結局この一件は分からずじまいのまま閉じたのである。 別に本人を突き止めても怒るつもりは毛頭無い。もし俺に叱咤されるのだろうかと怖れているのならば、見当違いも良い所である。 俺は黙ってコップを持ったまま立ち上がり、台所へ入った。夜食の準備をしている賄いの者が振り返り、「そこに置いておいて下さいね」と言ったので、言われるままコップを流しの横へ置く。夜食はもう大分出来上がっており、今日は魚ですよと賄いの者が笑った。 確かに魚の良い匂いが台所の奥の竈から香っていた。実質魚は美味かった。 そして夜は更け、昼を過ぎ、ようやく責務から解放された俺はまた道場へと向かう。 適当に木刀の一本を手に取り、素振りを始めた。夕方の光が段々と道場の障子から漏れ光る。俺はしばし素振りの手を止め、赤く染まる障子を眺めていた。 これほど美しい色に染まったのは久し振りである。昼でも雲ひとつ無い晴天だったので、恐らく外の夕焼けは綺麗であろうなと思いながらまた素振りを始めようと腕を振り上げた。 しかし、障子に人影が映ってのを見て俺はその手を下へ下ろす。人影はいつも俺が稽古を終えて座る場所のすぐ側をうろつき、それから素早く消えた。 無意識の内に俺の脚は動き出していて、障子の前まで来て勢い良くそれを開けた。しかしもう誰もいなかった。俺の足元には、汗を掻いていない水が用意されていた。 時計を見ればもうそろそろ稽古を止める時刻だった。自室へ戻ろうと廊下を歩いていると向こうから原田が歩み寄ってきて、擦れ違い様に「賄いの方は優しいですね」と言った。 俺の足は止まったが、そのまま原田は廊下の向こうへ消えてしまった。俺は少しそこに突っ立って、それから向きを変えて、台所へ足を進めた。 要するにそれだ。俺はいつも悪足掻いている。完璧になれる訳が無いので自らで理想なるものを作り掲げているだけなのだ。 でもまあ後悔はしていない。足掻く事こそ美学。そう信じているからだ。台所の側へ来ると良い匂いがした。今日は鰻らしい。






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