01 裕子さん
「それで、お姉さんはどこに行ったの?」
僕はゆっくりと肉を咀嚼して、ふるりと頭を小さく振った。ふうん、と裕子さんはつぶやいて、椅子をガタガタいわせながら立つ。裕子さんの声は、僕よりも、もちろん姉よりも低い。そのぶよぶよとした腹の中で膨れ上がった彼女の声に媚びた気配を感じるのが僕は嫌いだ。僕の椅子の後ろまで重々しい足音が移動して、肩にずしりと重み。甘くて派手な香水のにおいで、乗っているのは裕子さんの顎だとわかった。とはいえ、最初からこの屋敷には僕と裕子さんの二人しかいないのだけれど。僕は構わず、次の肉を指でつまみ上げて口に運ぶ。ふふ、と裕子さんの笑い声が聞こえる。
「じゃあ、啓くんは捨てられたわけだ」
右手で肉を口の中に押しこみながら僕は反射的に、左手で裕子さんの顔面を殴った。
地獄の底からのような、低い呻き声。肩が軽くなったと思うと、床に重いものが転がる音がした。
裕子さんは肉の塊のような体系をしている。よくは知らないが、大変な金持ちの妻だったらしい。そのためにおぞましいほどの遺産を持っていて、いつもひどく贅沢な食事を摂っているので、そこらの豚よりも美味しいかもしれない。
反面、姉の体は細かった。腕も足も胴体もすべて。そして、その全てにいつも包帯が隙間なく巻かれていた。同じように線が細くて柔らかい声。姉はいつでも優しく、美しかった。物心がついたときから一度たりとも離れることはなかった。
――啓輔くん、行こう。
いつだってそう言って、姉は僕の手を引いた。それだけで僕は、空を飛べた。
「姉さんは、僕を捨てたりしないよ」
肉を飲み下し、ぺろりと指を舐める。裕子さんは懲りずに再び僕の肩に顎を乗せる。
「じゃあお姉さんは、どうしているの?」
「町にいる」
不思議そうに裕子さんが聞き返した。「町?」
「昔、僕と姉さんが過ごした、潮騒の絶えない海沿いの町。空も海も全て青いって、姉さんが言っていた」
僕には確信があった。僕たちが育った、あの青い町。姉が僕の手を引いて、空を飛ぶように逃げ出した、あの町に姉はいる。僕の帰りを待っている。そんな、確信が。変わらない姿で。変わらない声で。そして、魔法のように、僕をまた飛ばすのだ。そう考えると、心が震える。今すぐにここを飛び出して、姉の元へ走っていきたくなる。けれど。
裕子さんが僕の耳の形を二回なぞった。合図だ。僕は椅子から音もなく立ち上がり、この未亡人が寝室へ向かうのを追う。
ベッドの中で豊かな脂肪の海に飛び込む。深く、深く潜りながら、僕は姉を夢想する。細い手首に巻かれていた包帯。美しく儚げな声。僕の手を引くときの、細腕からは想像もつかない強い力と、魔法のような感覚。姉の記憶を掘り起こすだけで、眩暈がするほどの興奮が肉体を揺り動かした。僕は恍惚としながら裕子さんの上で暴れる。裕子さんは獣のような声を上げた。あの町の青に思いを馳せながら、僕はまとわりつく脂肪の中に沈む。
裕子さんがいなくならない限り、僕はここに繋がれたままだ。
目が覚めると、苦いにおいが部屋に満ちていた。裕子さんが煙草を吸っているらしい。
「おはよう、啓くん」
このときはいつも、挨拶を返さずに横を向く。裕子さんはその表情がお気に入りらしく、もっとやって見せて、とせがむこともある。
「啓くんは奇麗ね」
裕子さんの丸い指が僕の頬を滑る。目を細めて見せると、ぶよぶよとした指が僕の喉にゆっくり沈んだ。少し息苦しくなる。これも、いつもやっていること。裕子さんは僕に抱かれた後に僕の喉を絞める。それはどこか暗くて、背筋がぞくぞくして、気持ちいい。
「啓くんの顔かたちはさながら人形だわ。心も純粋で凶器のように鋭くて、本当に奇麗。神様の子供かなにかかしら」
姉の方が美しい、と僕は心の中で吐き捨てる。僕の美醜の基準は姉だった。姉に近ければ美しい。異なれば醜い。裕子さんは、何ひとつ姉と重なるところはなかった。けれど彼女は僕を拾い育て、僕はその代わりに彼女に従う。
「僕は、あなたと同じ人間だ」
無表情のままそう言うと、裕子さんのねっとりとした息が顔にかかる。
「あら、とてもそうとは思えないわ。拾ったときの啓くんは玉のように奇麗で、とてもじゃないけれどこの世界では生きていけない不具者だった。けれど、その不具こそが神の子の証。美しい不具は信仰の対象なのよ。感謝しなさい。啓くんはそんな姿だったから私に拾われて、ここで何不自由ない生活をしている」
「繋がれているの間違いだ」
「神の子は繋いでおかなければ逃げてしまうでしょう」裕子さんが鼻にかかった声で笑う。
「啓くんは私のために動く人形で、私がかしずくべき神の子でもある。啓くんの美しさはその証拠なのよ」
それならば、姉こそが神様だ、と思った。その姿を見た誰もが跪いてしまう神様。僕は神様の弟だ。子供ではない。誰が、見も知りもしない者の血が入った子供など。そうではなくて、姉からぽんと分裂して生まれたのだったらどんなにいいかと思った。もしそうだとしたら、僕だけが、姉と血を分けたぴったり人間なのだ。他の誰とも違う。僕だけが。
夢を見た。姉の夢だ。姉は僕に背を向けて立っている。何度も心の中で思い描いた細いからだが、腕に足に巻かれた包帯が形になっていく。長い髪が風に揺れる。曇っているはずの目の奥がかっと熱くなった。姉さん、と必死に呼ぶ。僕だよ。今まで、ずっと一緒だった。片時だって離れることがなかった。いつだって二人っきりで、潮騒の聞こえる町でひっそりと暮らしてきた。僕は、姉さんの弟だ・・・
――啓輔くん。
姉がこちらを振り向いた。その顔はぼんやりとして見えなかったけれど、笑った気がした。
――啓輔くん。はやく、こっちへ、おいで。
そう姉が言った瞬間、正面から強い風が吹いてきた。飛ばされる、と思った瞬間、目が覚めた。
朝だった。空気の冷たさでわかる。隣でうごめく象のような体に押しつぶされないよう、僕はベッドを這い出た。一階へ降りる階段のいちばん上に腰かけ、じっと耳を澄ます。どこからか、またあの姉の声が聞こえてくるような気がした。
姉に呼ばれた。時間が来たのだ。
「啓くん?」
どれほどそうしていたかわからない。ふと後ろから呼び止められて、声のしたほうを振り返って見せる。重々しい足音がする。裕子さんだ。とはいえ、この屋敷がどういう仕組みで成り立っていたかは知らないけれど、この中にいるのは僕と裕子さんだけだ。
「珍しいわね、啓くんがこんなに朝早く起きるなんて」
僕はついと横を向く。裕子さんが満足げに笑う。
「啓くんは綺麗ね」
ぶよぶよとした指が、そっと僕のほほを滑った。喉まで下された指が、ゆっくりと僕を圧迫していく。されるがままにして、僕は裕子さんの声を聞く。姉の方が美しい、と僕はちいさく呟く。ねえさんのほうが、きれいだ。
「私が大切に育ててきて、慈しんで、こんなに美しくしてやった神の子。啓くん、あなたは外の世界では生きていけない不具者なのよ。外に出たら、あなたは溶けて消えてしまう。だから、ここで、この屋敷で、ずっと私と一緒に生きていくの。ここにいれば何も怖いことなんてないわ。辛いことも、悲しいこともない。永遠がここにはあるわ。私と、啓くんの。二人だけの永遠。とても、素敵だと思わない?」
「・・・裕子さんは、永遠ではないよ」
永遠は姉にこそある。
時間が来たのだ。この生ぬるい監獄で、僕は彼女に食される肉のひとつになる前に、ここから出なければいけない。姉の元へ。帰らなければ。
姉の声が、また頭の中で響く。
――啓輔くん。はやく、こっちへ、おいで。
裕子さんが息をしていないことを確かめた。冷たくなっていくのを感じて、可哀相に、と思った。誰も裕子さんの死を知らないし、気にも留めない。この屋敷には僕と裕子さんの二人しかいなかったから。
重力、というものを裕子さんから習ったことがある。同じところから物を落とすと、重いほうがより星に強く引かれて、早く落ちる。この力のおかげで物はふわふわと空中に浮いたりしないし、もし高いところから落ちてしまえば衝撃で死んでしまうのだ、と。それを聞いて真っ先に思ったのは、姉に手を引かれたあの瞬間。あのとき僕は本当にふわりと浮いたのだ。重力は星の力だという。それならば、あの瞬間、僕たちは星から解放されていたのだ。姉と二人だけの世界にいられたのだ。僕は教えられたことをきちんと覚えていた。重いもののほうがより星に引かれるのなら、ぶよぶよの裕子さんはきっと、二階の階段から落ちただけでも。
――僕は、あなたのことが嫌いだったわけじゃないんだよ・・・
そう、裕子さんに言ってみた。僕を拾って育ててくれた。いつも、啓くんは奇麗だと歌うように言い聞かされてきた。ただ、僕はこのままここにいれば、脂肪の塊になって、裕子さんに嚥下されていたのだろう。そうなる前にここを出て、僕は姉の元へ帰らなければならない。僕はそっと、裕子さんがいちばん好きだった不機嫌な顔をして、屋敷の扉を開けた。扉はひどく重くて、まるで僕を外になど行かせまいとしているようだった。全身の力を振り絞り、扉を開ける。外の冷え冷えとした朝の空気が僕の髪を揺らした。
「ねえ、ちょっと、あんた!」
急にきんきんと甲高い声に呼び止められて驚く。この屋敷には僕と裕子さんだけしか住んでいなかった。裕子さんだってそう言っていた。けれど、声は屋敷の中からする。
「あんた、おい、そこのおまえだよ、でくのぼう! この、曇った目の×××!」
語気の強い声にびっくりした。こんな口調は姉も裕子さんもしなかった。ひどく心がざわざわする、穏やかじゃない声だ。僕は眉を小さく寄せる。
「・・・君は、誰だい」
「ああ? あたしは、この屋敷に囚われていたヒミコだよ。あのでぶのイカレ野郎に捕まって、あんたみたいにここに繋がれてたんだ。なあ、あんた、あのでぶを殺したんだろ? へへへ、いい気味だねえ。あんた、外に出るんだろう。頼むからさ、あたしも一緒に出してくれないかい」
「・・・・・・」
「ねえねえ、頼むよ。お兄さん、お顔がとっても奇麗だね。天使みたいだね。きっと、心も天使みたいに優しいんだろうねえ。だからさあ、お願いいたしますよお兄様、あ、わたくし魔法使いのはしくれでございまして、あんたの目、その曇った目を、透き通ったガラス玉みたいにしてやることも、へへ、可能でございます」
「目を?」
小さく聞き返すと、ヒミコはさらに早口でまくしたてた。
「そうでございますともそうでございますとも! お兄様の目、その夢見がちな目、お兄様の美しい顔を唯一壊す部品にして不自由たる証のその目を、もっと美しく、この世の青空、青い海白い砂、緑の草原、そしてかわいいあの子の顔までよく見える奇麗な奇麗なガラス玉にしてやりましょう! あんたのやたらと整った顔なら、それさえあればどんな女も思い通りだぜ!」
「・・・・・・姉さんの顔も、見られる?」
「姉さん? ・・・ええ、姉さん! 姉さんもばっちりです!」
「・・・いいよ。放してあげる。どこにいるの」
ヒミコの快哉が聞こえた。
「ただ、その扉をめいっぱい開けてくださればいいのでございます。開く限り、めいっぱいに。そうすればお兄様もわたくしも自由ってもんですよ」
扉を開けるのはひどく疲れるので一瞬躊躇したけれど、目のことを思い出し、ノブに手をかける。ヒミコのきゃんきゃんと甲高い声援を後ろに聞きながら、僕はただひたすら姉のことだけを考えていた。あともう少しで、姉にまた会える。僕の目を見て、姉はどんな顔をするだろう。夢にまで見た姉の姿。それが、現実のものになる。
ほんのかすかに、裕子さんの煙草のにおいがした。
扉が開いた。
視界が明るくなった。
広い、と思った。
情報が多い、と思った。
そして何より、美しい、と思った。
「どうだい、あんた。あたしのやった目玉は」
ヒミコの声がする。けれどその方を向くこともできず、僕は呆けたように外の景色を見つめていた。何もかもが新しい。けれど、なぜか確信を持って僕は青を感じ取った。僕の視界に広がる色。それこそが青だと。青。冷たくて無機質で、けれどどこか暖かく豊かな、深い色だった。この瞬間、僕は姉が求め続けた青というものに初めて出会った。
この青の向こうに、姉がいる。
僕は無我夢中で歩き出した。後ろから「おい、ちょっと待ちなよ、あんた!」と声がしたが、聞こえなかった。ひたすら青に向かって進む。青は美しかった。青に囲まれていた僕たちの生活は、あのころの日々は、どんなに素晴らしかっただろう。
「――ねえ、あんた。こいつをのぞきこんでみなよ」
ヒミコに髪を引っ張られ、むっとして振り返る。そこには地面にぽっかりと広がった穴のようなものがあった。けれど穴でないとわかったのはそれが僕の頭上にあるのと同じ木を映していたからだ。言われたとおりにそれを覗き込んでみる。すると、そこには何かがいた。何か――何かはわからない。けれど、それはひどく、ひどく美しいものだった。
「なんだい、見惚れちまったのかい。自惚れ屋だねえ。そいつはあんたの顔だよ」
からからとヒミコが笑った。僕は驚いて目を見開く。すると、目の前の僕も目を見開いた。
映った僕の顔は、おそろしいほどに美しかった。
すっと通った鼻筋、薄く小作りな唇。肌はなめらかで、眉は凛々しく、少しの愁いにしかめられている。そして、まるであの町で姉と一緒に過ごしていたことを、僕が姉の弟であることを如実に表すかのように、瞳の青は澄んでいて、きらきらと光っていた。僕は自分の顔に見入った。ぶよぶよの女がいつでも褒め称えた僕の顔。裕子さんは美を見つけるという意味では才能があったのかもしれない。
僕の顔の隣に、小さな毛の塊のようなものが浮いている。顔を上げて隣を見ると、そこにも同じようなものが浮かんでいた。
「はじめまして、イカレ頭の顔だけ天使さん。あたしがヒミコ、魔法使いのはしくれさ」
毛玉はくるくると空中を回転して、けらけらと甲高く笑った。
「天使じゃない。僕は、神の弟だ。神たる姉さんの体から分裂して生まれたんだ」
「はっ、言ってらあ。あんたは顔が奇麗なだけのただの人間さ。あんたの姉ちゃんがどんな奴だか知らねえけどよ、本当に神さんならあんたの目はどうして曇ってたんだよ」
「違う。不具は信仰の証だって裕子さんは言っていた。美しい不具は神の印だって」
「ふうん、あっそ。まあどーでもいいや、あんたたちのねちねちした話なんか聞いてっと耳の奥が腐っちまう。とりあえずあのでぶから開放されたんだ、どこへなりとも行けばいいさ」
風が吹いてきて、僕の髪をそっと撫でた。まるで姉がその向こうにいるとでも教えるみたいだった。僕は風を追って歩き出す。風は青色だった。姉の元から吹いているので青色なのだ、と納得した。歩き始めてすぐに足がもつれた。息が上がる。体力がないのだ。僕があの屋敷で必要とされる動きは裕子さんの上で暴れることだけだったから、どこまででも歩ける力は持っていなかった。けれど止まることができなかった。姉がいる。そう思うだけで、足が勝手に動いた。まるで磁石のように。進め進め、姉の元まで。僕は磁石のN極で、姉はS極なのだ。自分の半身を追いかけている。そしてきっと、くっついたら、再び離れることはない。
姉さん、と叫んだ大声が、わいんと木霊した。