02 車椅子の女
彼女はお椀にとろとろとした粥を流し込むと、僕へ差し出した。優しくほほ笑んで、お椀を受け取る。僕が笑えば女が喜ぶことは知っていた。美しいものを女は愛でる。裕子さんも、彼女も。
「啓くん」
彼女はぎい、と車椅子を軋ませた。
彼女の名前を僕は知らない。彼女が名乗らないし、君、と呼べば、この二人きりの家では事足りるからだ。とぐろを巻くほどの長い髪を肩に垂らしている。顔立ちは悪くなかった。そして、不具の足を持っていた。足の付け根から消えてしまった足。僕と同じ、不具の証。とはいえ、僕はもう不具ではないのだけれど。
「啓くん」
彼女はあのぶよぶよの女よりも細い声で僕を呼ぶ。掴んだ彼女の腕は裕子さんのそれよりも何倍も細くて、息を飲んだ。力を入れたら折れるかな、と思い、ぎゅっと握りしめてみたけれど、女が痛がるだけで、なにも変わらなかった。その小枝のような脆さが、僕は気に入っている。少し姉を連想させるからだ。姉に似ているものは、美しい。だからこの女の細さも美しい。姉は、こんなに細かったのだ。儚くて、今にも、消えてしまいそうな。けれどヒミコは彼女を見て早々に「いやらしい匂いがする」と言った。その他に、僕の知らない言葉でたくさんの暴言を吐いていた。彼女は怒るだろうか、とずっと横目で観察していたのだが、彼女はそこにヒミコがいないかのように振舞った。少し疑問に思って、彼女に君にはここにいる毛玉が見えないの、と聞いてみると、なんのこと? と首を傾げられた。なるほど、これは僕にしか見えないらしい。いいや、夢を見ていたんだ、と嘘をつくと、女は嬉しそうにほほ笑んだ。夢を見るのは純粋の証拠と裕子さんが言っていた。夢を見るのは子供の特権。そして子供は純粋なもの。僕はずっと裕子さんに子供のように育てられてきた。啓くんは奇麗と歌うように毎日言い聞かされてきた。あの屋敷の中で、僕は、ひたすらに純度を上げていたのかもしれない。そう考えると、奇麗なものが好きな裕子さんが僕を屋敷の外に連れ出したがらなかったのも合点がいく。
そういえば裕子さんとはどのような姿をしているのだろうね、と僕はヒミコに聞いた。ヒミコは吐き捨てるように、「あんなでぶ、見ないほうが身のためさ」と言った。
「啓くん、私、先に眠るね。なんだか今日は疲れちゃって」
彼女はからからと車椅子を回して、僕に背を向けた。そんな枯れ枝のような体で働きまわるからだ。女というものは、僕を見るとかしずきたくてたまらなくなるものらしい。それは謙遜してもこの車椅子の女よりもはっきりと美しい僕の顔が原因なのだろう。美しいものを女は愛でる。僕からいつも美しさを吸い取っていた裕子さんの言葉が蘇った。
――啓くんは私のために動く人形で、私がかしずくべき神の子でもある。
僕は無言のまま彼女の背後に忍び寄り、車椅子ごと引き倒した。彼女は嫌がらなかった。そうなることがわかっていたように、むしろ求めていたかのように、僕の首にその細い腕を巻きつけてきた。絡み合うように落ちた硬い床は、おそろしく冷たく僕の熱を奪った。
裕子さんにしていたのと同じように、女の舌を自分のそれでまさぐりながら、乱暴に服を脱がせていった。裕子さんのように脱ぎやすく動いてくれないのでやりにくい。けれど、ワンピースを全部剥ぎ取ったとき、
「――・・・・・・」
僕は手を止めた。
「・・・けい、くん?」
彼女が不思議そうに覗き込んでくるが、僕の視線は彼女の下半身で止まっていた。
足は付け根に近いところで切断されている。けれども、そんなことには驚かなかった。問題は、その足の間にある。
「君には、足だけでなくてこれもないの?」
「えっ・・・」
首をかしげる女に、僕のそれを見せる。すると彼女は変なものでも見たかのように顔をしかめながら笑った。
「啓くんたら、それは、女にはないものよ」
「ない? そんなわけがない。現に僕はずっとこれを持つ女を抱いてきた」
「これを持つ人は女じゃないわ。女には、これの代わりに別のものがあるの」
そう言って、彼女は少し僕を馬鹿にしたように見つめた。軽侮の眼差し、というものを僕は初めて知った。
「ねえ、ちゃんと見て、啓くん。あなたが抱いてきたその人の体とは違うでしょう・・・?」
「・・・・・・」
「それは、あなたと同じ体をした、男の人よ・・・」
彼女は枯れ枝のような腕を僕の首に巻きつけてくる。引き込まれるままに、僕は女に沈んだ。女の、さっきまでのか細い印象とはかけ離れた笑い声がする。ああ、裕子さんと同じだ、と思った。裕子さんを女ではないと否定しておきながら、結局女というものは裕子さんのような、可哀相な人となんら変わりないのかもしれない。それとも、裕子さんが限りなく女に近かったのか。どちらかはわからないけれど。振り払うようにすがりついた体は血が通っていないかのように温度がなくて、僕はぶるりと震えた。
夢を見た。姉の夢だ。姉は椅子に深く腰かけている。長い髪がさらりと肩にかかる。僕は手を伸ばして、姉さん、と、小さな子供のように叫びながら、その細い手首を掴む。巻かれていたはずの布の感触がないことに驚く。足元に目を凝らす。足が根元から消えている。見上げた顔は、車椅子の女のそれで、僕は悲鳴を上げる。
朝、目が覚めると、女は動かなくなっていた。
僕の頭が彼女の胸に乗っていたせいで呼吸ができなくなったらしい。あたりには昨日の女の香りが残っていて、僕は思わず落ちていたシャツで鼻を覆った。裕子さんのときとは違う、なまなましくて、黒いにおい。これが女というものなのか、と思った。
自分の下に倒れている彼女を見下ろす。朝日に照らされた彼女は、やっぱり白くて、ひどく痩せていた。彼女はどうして今まで生きていたのかな、と思った。もしかしたら、僕に殺されるためだったのかもしれない。そう考えると、急に彼女が可哀相で、いとおしくて、たまらない気持ちになったので、彼女の体を抱きしめた。すると、腕の中でぱきん、と何かが折れる音がした。女の体がひび割れる音。人形のように。そうだ、この人は人形だったのかもしれない。だから温度がなかった。僕の姉と、ちょっと似せて作られた人形。ひび割れた白い細い体を上から見下ろして、くふふ、と僕はちいさく笑う。すると上から毛玉が下りてきた。ヒミコだ。僕は顔を上げてヒミコを見る。ヒミコは馬鹿にしたようにくるくると空中を回っていた。
「あーあ。やっちまったね、あんた。二人目。二人目だ。人殺しだねえ、罪だねえ」
「人を殺すのは、罪なの?」
「ああ、罪だよ。ふつうの人間なら、罰として首をちょっきんこさ。ただし、あんたならねえ。なんにも知らない、子供のようにばかで純粋な、天使みたいな顔をしたあんたなら、きっとだあれも裁けやしないさ。だからあんた、いっぱい、いっぱい殺すといいよ。できるだけ残虐に。そうしたらあんたはもっともっと人間から遠くなって、果ては怪物か神様か。あんたの好きな姉さんとやらにも近づけるかもねえ」
「ふうん」
姉に近づくためなら、殺そうと思った。
人をたくさん残虐に殺せば、神になれるとヒミコは言ったけれど、姉は虫一匹殺せないような人だった。だから毎日、僕と姉は青い海から汲んできた水だけを飲んでいた。そのうち、わたしたちも海の一部になってしまうかしら、と姉は笑っていた。そうなれたら素敵だと僕も思った。ふたりして海に溶け合って、くらくらするくらい青く、不健康に青く、底抜けに青く、なれてしまったらよかった。そうすれば、僕は姉と一体になれた。姉から分裂した僕の体は、またあるべき所へ戻っていくのだ。姉の元へ。