03 ホウイチ
僕はうんざりと首を回した。すると、すぐに絵筆が飛んでくるので、また元通りの姿勢に戻す。ホウイチはようやく満足したようで、パレットを床に置くと、にんまりと、下手糞に笑って見せた。
僕は立ち上がって、シャツを羽織りながら、ホウイチに近づく。彼女の脇からカンバスを覗き込むと、そこには青色の僕がいた。裸の僕は物憂げにどこか遠くを見ている。絵に書かれたものなのに、その瞳には妙な光が浮かんでいる。魅惑的な、けれど危険な雰囲気のそれにちいさく喉を鳴らして、「姉に焦がれる弟像だね」とホウイチの耳に囁いてみたけれど、ホウイチはもちろんそんなことには気づかずに、ただじっと出来上がった僕の絵を眺めていた。
ホウイチは耳が聞こえない。
車椅子の女が死んでしまったあと、僕は長く歩き続けた。時間が経つにつれて空の色が変わっていくのが面白かった。ヒミコは時には面倒くさそうに、時には聖母のように優しく僕に色の名前を教えてまわった。ただ、青以外の色は僕には見ることはできなかった。青以外は認識ができなかったのだ。
車椅子の女の家は山の中にあって、周辺には人影などまったく見当たらなかった。けれど、山の麓まで下りたころに、ひとつの家を見つけた。それがこの家だ。けれども家の外はたいへんな荒れようだった。薄っぺらい木の門はぐちゃぐちゃに破壊され、辺り一面にゴミが捨てられていた。僕はその家を無視して進んだ。しばらくして僕や裕子さんと同じ性別の人、つまり男の人と出会い、あの家はなんだと訪ねてみると、彼はひどく馬鹿にしたような顔になって、「あれはホウイチの家さ」と自信たっぷりに答えた。そして僕はここへ引き返してきたのだ。
ホウイチは醜い。
汚い歯はところどころ抜けているし、短い髪はぼさぼさで、つややかさなど微塵もない。けれど、いつだって素朴に、純粋に僕を描き続けた。裕子さんや車椅子の女のようにねとねとしたいやらしい空気をまとっておらず、彼女はまるで少年のようだった。けれど、僕は彼女を抱いた。純粋を求めた。そのときようやく僕は裕子さんの気持ちを理解した。純粋は欲しくなるものなのだ。体内に取り込んで、慈しみながらゆっくりと嚥下する。つまり、人は純粋になりたいのかもしれない。自分の持っていないものが欲しいのかもしれない。だから、裕子さんたちは僕を美しい不具として、あるかたちの純粋の証として、欲しがったのだ。そう考えると、少々ホウイチでは役不足に思える。ホウイチは美しくはないからだ。ただ僕自身は美しい純粋だったので、求める必要はなかった。
ホウイチは話せない代わりに、たくさん絵を描く。彼女の部屋には一面に絵が貼られていて、ぐちゃぐちゃしたような曲線の塊が渦を描いていた。ヒミコはそれを見るなり「イカれてる、悪趣味だ」と罵ったけれど、僕はその絵をとても気に入った。けれど、その絵たちの青がひどくくすんでいるのは不服だった。ヒミコが言うには“赤”とか“黄色”とか“ピンク”とか、そういう色で絵は占められているらしいのだけれど、僕には一面に濃淡織り交ぜた青色の絵にしか見えなかった。そうヒミコに言うと、ヒミコはぐるりと回って彼女の道具たちを指し示した。カンバスの横にある絵の具、青のチューブだけがふっくらとしていた。
ところが、ホウイチは僕に出会ってから僕の絵だけを描き始めた。
今までのぐちゃぐちゃした線の塊ではなく、目の前にあるものを写し取ったような絵。最初はあまり上手ではなかったけれど、今ではなかなかの出来だった。そして、ホウイチは僕を描くとき、必ず青い絵の具だけを使った。裸の僕の、髪も目も肌も鎖骨の陰も性器も、純粋で透明な青の濃淡で表れた。その美しさに僕は惚れ惚れとした。澄んだ青い人間。姉と一緒に海に溶け込んでしまえたら、きっとこんな姿だったに違いない。だとすると、それは、僕がなりたい理想の姿だった。ホウイチは今までの絵はそっちのけで僕ばかり描いた。毎日増えていく青い僕。それを恍惚の表情で見つめる青くない僕。こうなりたい。こうなれば、僕はもう姉とひとつになれるのに。
ひとしきり絡み合って、ホウイチが寝入ってしまった夜、僕は目が冴えてしまったのでベッドの外に出た。裸の僕。カンバスにかけられているのも、裸の僕だった。
月明かりが差し込む室内で、じっとその絵を見る。
完成しているようだった。毎日毎日描かれているので、もうどれがどの絵かわからない。ただこの絵が他のどれよりも素晴らしい出来であることは気づいた。中央から視線を逸らし、足元を物憂げに見つめている。伏せた青い目は長い睫毛で縁どられていて、それがほほに青い影を落としている。さらり、と青い髪が目元に垂れ下がり、儚げで、そうだ、
これは、姉だ。
半分乾いた絵筆を取り、青のチューブから絵の具を搾り出し、そっとそっと髪を伸ばしていく。項をひと房滑り落ちていく髪。胸元まで豊かに垂れる髪。艶やかで流れるような髪を描ききったときに、思わず感嘆の息を漏らした。
夢にまで見た姉の姿そのものだった。愁いを帯びた目元、力なく引き結んだような唇、なめらかな肌、豊かな長い髪。そしてすべては、青色。
姉さん!
僕は歓声を上げて絵に飛びついた。姉は僕が想像したものと寸分違わぬ姿でそこにいた。そして、自分の姿が姉のものへ戻ったことに深い安心を覚えた。収まるところへ収まったような、そんな安定感が僕を包んでいた。
後ろから悲鳴が聞こえた。
裸のままのホウイチが僕の背後に立ち尽くし、大きく口を開けている。抜けた歯が見えて醜い。けれどそんなことを思う暇もなかった。ホウイチが壁にかけてあった僕の絵を掴んで僕に殴りかかってきたからだ。大きく振り下ろされたそれをよけると、ホウイチは意味不明の言葉を喚きながら絵を闇雲に振り回し始めた。部屋の隅に逃げる。先ほどの絵が投げつけられ、まだ何も書かれていないカンバスに引っかかって破けた。けれどそんなことは気にも留めず、ホウイチは別の絵を次々に投げつけてきた。けれど狙いは少しも定まっていくなくて、そちらこちらにばらばらと散らばっていく。そしてホウイチは、あの絵を、姉の絵を手に取った。すがりつくようにかき抱き、大声を上げて泣いている。しかし、ふっつりと泣き声は止み、絵を持ったまま静かに立ち上がった。その表情は怒りで満ちている。これほどに怒りを湛えた顔を見たことはなかった。嫌な予感がした。やめろ、と声を張り上げる。けれど彼女には聞こえない。姉は思いきり振り上げられて、イーゼルの先端に叩きつけられた。
「姉さん!」
僕は悲鳴を上げた。
イーゼルの先端は姉を突き破った。
姉の青い体が、粉々に、なっていく。
怒りと悲しみで、目の奥がちかちかと明滅するのを感じた。僕は破れたカンバスの尖った木片を手に取り、ホウイチへと突き刺した。
鮮血が、ぼたぼたと零れていく。幾筋かは木片を伝って僕の腕へと流れてきた。温かい、ねっとりとした感触が腕を包んだ。
ホウイチは倒れた。その目はもう静かで、僕をぼんやりと見て何事か呟くと、そっと笑った。そして動かなくなった。
僕は自分の手を見る。鈍く重い色が腕をとろとろと流れていく。ヒミコが昔「これは、いちばん大事な色だよ。なにしろ、人間の血の色だからねえ。あんたが殺せば殺すほど、この“赤”色はたくさん溢れてくるのさ! 邪悪で罪深い、化け物にはぴったりの色さね!」と言っていたのを思い出した。そうなると、これは“赤”色なのだろうか。僕は青色以外わからない。破れてしまった姉の絵に手を伸ばすと、触れたところから血が染みて、姉がどろどろと青くなくなっていく。
姉さん。
ほほが熱くなった。目からぽろぽろと雫がこぼれ落ちた。自分の涙を呆然と眺めていると、真上から声がした。
「また殺したねえ。これで三人目だ。いいねえ、悪いねえ、化け物だねえ」
いつの間にかヒミコが頭上でぐるぐると回っていた。
「今回は、刺して殺したんだね。いいよ。一人目は落とした。二人目は押しつぶした。三人目は刺した。猟奇的だ。いいよ、奇麗だよ、あんた」
僕は黙って姉の絵を見下ろした。いや、違う。これはよく似ているけれど、姉ではない。姉のことを知らないホウイチが僕を描いたものだった。姉ではなかった。そう思うと、体じゅうが温かくなった。血に濡れた腕を上げて、破れたカンバスに塗りたくる。昔のホウイチの絵のように。ホウイチが僕が勝手に手を加えたことに怒ったのだとしたら、最後にホウイチ自身の血で完成させてやれば彼女も喜ぶのじゃないかと思ったからだ。この絵に、未練は、ない。僕が欲しいのは姉の絵じゃない。姉そのものなのだから。
そのままベッドに戻り、ゆっくりと沈むように寝た。見た夢は青い海がゆらめくもので、そここそが目指すべき場所なのだとわかった。
夢を見た。姉の夢だ。姉は祈っている。何かを、必死に。姉は神なのに、誰に祈るんだろうと不思議に思った。姉は祈られる側なのだ。遠く、ささやきが聞こえる。ブルー、ブルー、ブルー。あの日、僕と姉が石段をあの町を抜け出した日、聞こえていた声だ。いつかの記憶より、ずっと落ち着いた様子で声は繰り返される。どこか儀式めいている。小さく潮騒も聞こえて、僕はあの町だと確信を持った。僕たちがひっそりと静かに暮らしていたあの町。いつも海水を飲み、このまま海の一部になってしまうかしらと笑っていた姉。思った通り、姉は今もあの町にいるのだ。
姉に会いたい。
「姉さん」
ぽつりと呼んだ声は、どこにも引っかかることなく、無数の僕の虚像の上に降りそそぐ。