04 くるくる
きゃーっ、と妙に間延びした声で目が覚めた。階段を下りて庭に出ると、くるくるが鶏を捕まえようと走り回っていた。風になびく長い髪がさらりと音を立てて彼女の肩にかかるのをじっと見つめた。何度も足をもつれさせながら、彼女はしっかりと鶏を掴み、僕のほうを向いてにっこりと笑った。その笑顔が美しくて、僕も笑い返した。
今日の朝食は鶏らしい。
くるくるの家にはたくさんの生き物がいる。牛、豚、羊、鳥。それらはどうしてかいくら狩ってもなくならなくて、そうか、これは生かすためか、と僕は納得した。くるくるはそのシステムには気づいていないようだ。
ホウイチの家を出たのは今から月の満ち欠けが一周するほど前だ。ずっとヒミコと話しながら山を下りて、見つけたのが小さな集落だった。そこにいる住民はみんな一様に同じ顔をしていた。取り立てて醜いというわけではないけれど、どこか愚鈍でつまらない印象を受ける人たちだった。彼は突然現れた僕を奇妙なほどに喜んで迎え入れた。ヒミコがまた山ほど悪態をついたけれど、やっぱり誰もヒミコに気づかなかった。村の人たちは口々にうちに泊まっていくといいと言った。うちは広いしご飯もおいしいし、美しい娘もいます、という、たいそう下心丸出しの申し出だった。美しい娘といったってあなたたちと変わりない顔立ちなのだろうと思うとげんなりした。そうして、村中をぼんやり歩いていると、遠くにぽつんと一軒家が建っているのが見えた。ホウイチの家ほど露骨にぼろぼろではなかったけれど、どこかこの村にそぐわないような、妙な雰囲気を感じた。村人に尋ねてみると、彼らは同じ顔を同じように曇らせて、あれはこの家です、と頭の横で指をくるくると回してみせた。だから僕は彼女をくるくると呼んでいる。僕があの家に行くと言うと村人全員が驚き、特に男たちはどうか止めてくれないかと懇願してきた。けれど僕がひと睨みすると彼らはすぐに尻尾を巻いて逃げていった。誰にだってわかる、歴然とした美の差がそうさせたのだろう。そんな男たちを妻たちは冷たい目で見ていた。
くるくるは楽しそうに歌を歌いながら包丁を鶏に向かって振り下ろす。鶏の断末魔が彼女の歌にほどよい合いの手を加える。その光景を僕はほほ笑みながら見ていた。ヒミコはここへ来てからとても機嫌がいい。くるくるの歌に合わせて体をゆらゆらと揺らしている。
「イカレ男とイカレ女の食卓だ。いいねえ、この世のものではないようだ」
爽やかな朝日に、血で染まった台所の壁が照らされていた。昔のもう黒くなった地の上から、今日も鶏の新鮮なそれが飛び散っていく。鶏をこま切れにして毛をむしりとると、くるくるはそれを鍋に放り入れた。畑から取ってきた野菜を血まみれのまな板の上で切り始める。
くるくるの顔はひどく美しい。
最初に見たときに、僕は驚いて目を見開いた。僕にそっくりだったからだ。
きらきら光りを跳ね返すきめ細かい肌、流れるような長い髪、鼻はすっと細く、唇はやわらかく弧を描き、大きくて濡れるような瞳。つまり、以前破れてしまったあの絵、僕の思い描く姉の姿にそっくりだったのだ。
想像の姉以外に、これほど美しい人を見たことはない。だから僕は彼女を慈しんでいる。彼女もそれに応えてくれている。ささやかながら、満ち足りた生活だ。
目の前に白い椀が置かれた。先ほどの鶏肉と野菜のスープだ。ありがとう、と言ってから僕は口をつける。くるくるはにっこりと笑って、「はい」と鶏の骨をヒミコに与えた。
くるくるにはヒミコが見える。
ヒミコは大喜びで骨にかじりついた。それがヒミコの好物だ。ここに来るまで僕は知らなかったし、そんなものがあるなんて思いもしなかった。そのことをヒミコに告げると、人の気持ちもわからないぼんくらだと罵倒された。僕は怒られたことよりも、ヒミコは人なのだろうかということを考えるのに夢中だった。毛玉のようなヒミコはくるくるに懐いたようだった。くるくるのことを「お嬢さん」と呼び、いつも彼女の後ろをついてまわっていた。
くるくるの庭にはいつもたくさんの動物たちがいる。牛、豚、鶏、時々羊や山羊すら見えるときもある。それを彼女は毎日適当に選び、食卓にその血を捧げる。どんなにくるくるが使っても、次から次へと湧いてくる命。ここは魔法の牧場か、と最初は驚いたのだけれど、先日村の男がこっそりと鶏を持ち込んでいるのが見えて、くるくるは養われているのだと思った。では、なぜ? 村人の一員として? けれど、あの頭の横で指をくるくるさせた男の表情からは、仲間を思いやる優しい気持ちは欠けているように見えた。そんなことなんてどうでもよかったけど、くるくるが昼寝をし始めたから、僕は散歩がてらに村のほうへ歩いてみることにした。
村の広場に出ると、以前のように人々に囲まれた。矢継ぎ早にいろんな質問や言葉が浴びせられ、僕は目がくらんだ。村人たちは口々にうちに泊まってくれないかと頼んできた。女たちはぎらぎらと欲の光る眼で僕を見てきた。何が目的なのかは見当がついた。あわよくばお種頂戴、とでもいうところなのだろう。ヒミコは的の多さにはりきって彼らに手当たり次第に罵声を浴びせていた。適当に切り上げてくるくるの家に帰ろうとすると、村人たちはこぞって引き留めた。このままではらちが明かないと判断した僕は、ヒミコの助言を得て、村人の一人の家に泊めてもらうことにした。
まずまずの夕食をご馳走になりながら、くるくるのことを考えた。今頃くるくるは寂しがっているだろうか。僕の分の夕食を作って待ってくれているかもしれない。そう思うと少しくるくるがかわいそうになった。くるくるは優しい心の持ち主だ。捕まえた鶏の羽を一枚一枚毟りながら、ぼうっと月を見ているかもしれない。
くるくるに会いたくなった。
夜、客間の寝具の中でじっとしていると、予想通りこの家の娘が寝具の中に滑り込んでくるのが分かった。夜闇で顔は見えない。ほっとした。凡庸な相手の顔はあまり見たくなかった。
寝具の中で女の喘ぎ声を聞きながら、僕はくるくるを夢想した。姉ではない人を思い浮かべるのは初めてのことだった。いや、そうではない、と僕は気づいた。くるくるは姉と同じなのだ。僕が想像した姉とくるくるは一寸違わぬ姿だった。だから僕が姉を夢想するときに、外見上同一人物であるくるくるが表れるのは当然のことだった。けれど、そういう理由で僕はくるくるを抱いたことがなかった。姉の容姿をしているくるくるを僕の欲望で汚すことはなんとなくしたくなかったのだ。おかげで相手には気乗りしなかったが、僕は心ゆくまで久々の女を堪能した。僕の蒔いた種はどのように芽吹くのだろう。目が青いのならそれでいい。
事が終わり、女が惜しむように部屋を出ていく気配を感じて、僕は寝具から出た。服を着て、窓から外に出る。後ろから眠たげにふわふわと飛んでいたヒミコが「あんた、どこへ行くのさ、ちょっとぉ」と不満げに声を投げてきたけれど、無視して進む。寝静まった村を抜けて、月明かりを頼りに、僕はくるくるの家へと向かった。くるくるから離れていたくなかった。けれど、それはくるくるが恋しいのではなくて、姉のそばにずっといたいからだということには気づいていた。僕は姉を求めていた。姉から離れたのがどれほど前だったのかはわからないけれど、僕の成長はあの日から止まっていて、ただあの頃と同じように無心に姉を探していた。僕の時間は姉にしかない。だって僕は姉から生まれた分身なのだから。目の前にやわらかく暖かい光が見えた。くるくるの家の光だ。僕は足を速めた。くるくるはこんな時間まで僕を待っていたらしい。扉の前までたどり着いたとき、その音は聞こえた。
くるくるの声だ。いつもの声ではない。むしろ、先ほどまで僕が聞いていた声、女の声。
ぱたりと足を止めた僕に後ろからヒミコが追突して、「なんだいもう」と怒り出す。咄嗟に僕は人差し指を口の前にあててヒミコを見やった。ヒミコは眠そうに揺らしていた体をぱっと伸ばし、ぽんぽんと上下に弾みだした。
僕は窓からこっそりと室内を覗き込んだ。
くるくると男がいた。
だらしなく伸びたまっすぐで細い足がびくびくと痙攣している。揺さぶられるたびに漏れる声は扇情的で、ひどく僕を興奮させた。けれども僕はそれとは正反対に、冷たい怒りを宿していた。男の顔には見覚えがあった。さっき僕が帰ろうとしていたとき、必死に引き留めていたうちの一人だ。でも、村人全員が同じ顔だから、その人だとかどうかははっきりとはわからない。だけれど、なるほどと僕は合点した。この村はやはり、ずいぶん内部交配が進んでいる。だから村人全部がああいう凡庸で醜い顔なのだ。そこに僕が現れた。輝かんばかりの美の持ち主が。そして村人たちは歓喜し、新しい種をもらおうと僕の元へ殺到したわけだ。そして同じように、美しいくるくるも。
村人たちが頭の横で指を回していたのが思い出された。くるくるは、彼らに作られたのだ。ここに縛り付けて、死なないように食物を与える。
そこまで考え至ると笑みがこぼれた。彼らはさぞかし歯痒かったことだろう。僕が突如としてくるくるの家に住み着いてしまったのだから。村へ来た初日に女たちが夫へ見せた視線から察するに、彼らはくるくるに夢中なのだろう。きっと当番制でここへ忍び込んでいたに違いない。当番制。なんて馬鹿らしい言葉だろう。
気がつけば、部屋は静かになっていた。裏戸が開く音がして、庭の隅から走り去る男の姿が見える。心なしかその足取りは軽く見えた。
僕は立ち上がり、扉を開ける。キッチンを左に曲がって寝室へ行くと、くるくるが足を投げ出したままぼうっとしていた。その艶美さに、ごくりと唾を飲む。
くるくるが僕に気づいた。疲れたような顔でにっこりとほほ笑んだ。僕はベッドの隣に腰掛け、くるくるをじっと見つめる。
「君は、姉さんじゃないんだものね」
くるくるはきょとんと不思議そうな顔をした。
「啓くん?」
「だって君の目は、濁っている・・・」
くるくるが姉ではないと思わせる唯一の点は、目だった。澄んでいないのだ。僕は姉から分裂して生まれた。濃く冴え冴えとした青い瞳は、その証拠だ。二人で暮らしたあの町を閉じこめたような青の目。それこそが僕と姉を繋ぐものなのだと。
そうだ。この女は姉ではない。
「君は、この青い目を持っていない!」
気がつくと叫んでいた。息を荒げてくるくるの上に馬乗りになる僕を、彼女はゆっくりとその青くない目で見て、それから、笑った。
「あら、何を言っているの、啓くん。あなたのそれは、目じゃないわ。最初からあなたのそこに入っているのは、ただの青いガラス玉じゃない」
ぱちんと、目の奥が弾けた。僕は馬乗りになったまま、彼女の服を破り、揺さぶった。そうしながらその細い首に手を伸ばし、ゆっくりと締め上げていく。くるくるの目には悦びが見えた。にっこりと笑う。邪気のない笑顔だった。くるくる。くるくる。色に狂わされた、愚かな女。姉に似ていたけれど、姉とは違う、青くない女・・・
最後の声を上げて、それからくるくるは静かになった。そっと心臓に耳をつけてみるけれど、何の音も返ってこなくて、ただそこには静寂があった。
そっと起き上がる。
ベッドの後ろで、ヒミコがぴたりと静止して浮いていた。
「殺したねえ。狂った男が狂った女を殺した。これでああ、四人目だ。たくさん殺したねえ。たくさん殺したねえ。もっともっと殺して、みんなが怯えたり、見惚れたりするあんたが見たかったねえ。果ては神か、化け物か。青いガラス玉の目の顔だけ天使様。いいもんだねえ、抒情性に満ち溢れている。奇麗な啓くん。あんたなら、あんたなら伝説になれるよ。狂った男が殺した。ひとり目は性別の不具を。ふたり目は足の不具を。さんにん目は耳の不具を。よにん目は、頭の不具を。殺した男は狂っている。何に? ・・・姉にさ! 男は姉のために殺して回った。姉を神だとあがめていた。青い、青いだけのガラス玉を自分と姉を繋ぐものだと信じて。もう、おしまいだよ。伝説は終末を迎えたんだ。さあ、これが最後の旅路さ。姉に狂った顔だけ天使はどうなるのか? 続きは見てのお楽しみ、だねえ。ヒャハハハハハハハ!!」
突然、ヒミコは笑い出した。ぐるりぐるりと激しく回転しながら、時折ぴくりと痙攣している。狂っているような叫び笑いを上げたまま、ヒミコはまっすぐ進み始める。僕もその後を追う。村の中央を歩くとき、家々から人が転がり出てきて僕たちに頭を下げた。まだヒミコは笑っている。けらけらけら。僕は一度も口を開かずに、村から離れていった。毛玉は休むことなく笑っていた。けれど、そうし続けていると少しずつ体が小さくなっていくように感じた。僕たちはひたすら歩き続けた。その間にいくつかの集落を通ったけれど、みんな最初の村のように頭を下げて僕たちを見送った。僕は歩き続けながら、姉の夢を見続けた。起きているのか眠っているのかわからない状態で見た姉の夢は、いつだって海の中で、姉はそこでひたすらに祈っていた。何を、祈っているのだ。姉に会いたい。会いたい。姉、姉、姉さん、姉さん! 僕はいつだって姉さんを探していた。姉さんを求めていた。姉さんを愛していた。だって、姉さんは、僕の、僕の大切な、姉だから・・・
姉さんとひとつになりたい。