05 青の町

ヒミコの耳障りな笑い声が止むのと同時に潮騒が聞こえた。

僕は今まで惰性に動かし続けていた足を止める。足の裏が擦り切れて、前よりひと回り小さくなっていた。とろり、と流れた血の色が澄んだ青色だったことに満足した。

「さあ、ここが終局だよ。おしまいの、場所さ」

さっきまでの狂った笑みが嘘みたいに、ヒミコはそっけなくそう言った。

潮騒が聞こえる。音の波長が、青い波として押し寄せてくる。もう少し。もう少しで着く。

視界が開けた。

青かった。
すべてが青かった。

町並みも、空も、海も。すべてが青に包まれていた。僕は快哉を上げた。夢中になり石段を走り下りる。瞬間、無重力になるけど、またすぐに星に引き戻される。まだだ。姉さんがいない。僕が浮くのは、姉さんと手をつないだ時だけだ。だけど、もうすぐだ。もうすぐで、姉さんに会える。僕は両腕を広げて、「姉さん!」と叫んだ。この町のどこかにいる姉さんに向けて。僕は、戻ってきたのだ。姉さんの元に。

この町のことは体がよく覚えている。僕はまっすぐに外れの小さな家を探した。そこで僕たちは生活していた。殺生を好まない姉さん。ふたりで一緒に海水を飲んだ。あのまま一緒に海に還ってしまいたかった。少しだって離れていたくなかったんだ、姉さん。どこへ行くのだって一緒だった。いつかは啓輔くんもわたしから離れてしまうわね、と姉さんが言ったことがあった。僕はそんなことはないと言いたかった。言いたかったのに、どうしてか僕は何も言わなかった。姉さんを困らせたかったのかもしれない。いつか僕が自分から離れてしまうことを当然のように考えている姉さんを非難していたのかもしれない。どうしてあんなことをしてしまったんだろう。どうして、どうして、どうして! もしあの時僕が泣いて暴れてみっともなく顔を歪めて姉さんそんなこと言わないで姉さんが好きだ姉さんだけが好きだ絶対に離れない、と言っていたら、こうして離れ離れになることはなかったのかもしれない。会ったら、謝りたいと思う。そうしてもう一度、僕と姉さんだけで暮らすのだ。ふたり一緒に、海に溶け合ってしまいたい。
最後の角を曲がった。このまままっすぐ進んだところに僕たちの家はあった。





けれど、そこにはなにもなかった。





僕は呆然として、意識を取り戻すと半狂乱で走った。僕たちの家は跡形も残っていなかった。代わりに低い柵が作られていて、小さな岩が囲われていた。近づいてみると、その岩には何かが彫られていた。ヒミコに尋ねてみると、ヒミコは億劫そうにだらりと回りながら、「・・・ブルー・ブルー・ブルーって書いてあるよ」と言った。僕は息を飲む。ブルー・ブルー・ブルー! あの日、僕と姉さんがこの町を出た日、石段の陰から何かを探し求めるように聞こえてきた声。いったい、この言葉はなんの意味を持つのだろう? どうしてその言葉が彫られた岩が僕たちの家の跡に置かれているのだろう? ・・・そして、姉さんは、どこに行ってしまったんだろう?
町の中央に走り出ると、姉さんを探し回った。町のあちこちで大声で呼び、手当たり次第に姉さんはどこだと聞いた。通り過ぎる女はみんなはっとしたように僕の顔を見てうっとりと目を細めていたけれど、姉さんのいる場所は知らなかった。姉さん。誰も姉さんのことを知らない。僕と姉さんは誰にも知られずひっそりと生きてきた。僕も、姉さん以外の人は知らない。僕が怒りと困惑に身を震わせていると、今までじっとしていたヒミコがゆっくり口を開いた。

「しょうがないのさ。だってあんたがあのでぶを殺しちまったんだもの、筋書きが変わっちまったのさ。本当ならあんたはあそこから出ちゃいけなかったんだ。あのでぶと骨になるまで添い遂げなきゃならなかったんだよ。あたしもほんとは見張ってなきゃいけなかったんだけどねえ。ここまで連れてきちまった。ああいやだ、だってあんたはいつ見たってきらきらきらきらうるさいくらいに奇麗なんだもの。女を狂わせる美しさだね。あのでぶと車椅子と耳なしとお嬢さんは、手練手管であんたをたらし込んで、この町に近づけないようにするためにいたのに、逆にあんたにたらし込まれちまったんだ。ああもう、知らないよ。あんたは、あんたは、どんなに綺麗で、奇麗で、出会う女行き会う女を虜にしようと姉さんがいいんだろ。あたしが一番よく知ってる。だってあんた、そうだろ、あたしはあんたがあの屋敷に来たときからずっとあんたを見てたんだよ! あのでぶに肉奴隷にされているのを、それでも馬鹿みたいに姉さん姉さんって繰り返しているのを、ずっと見てたんだよ。あたしがここでしおらしく啓輔くんが好きって言ったってあんたは姉さんのところに行くんだろ。知ってるさ、知っているともさ! さあ、行くんだよ、とっととこんな伝説、物語、嫌な話を終わらせとくれ。あんた、でも、こいつだけは忘れないほうがいいぜ。化け物は、絶対に幸せになんてならないのさ。それでもまだ姉さんに会いたいなら、そうさね、あたしのこの毛を頼りに歩いていくといい。ふふふ、さようなら、顔だけ天使さん。あんたは世界でいちばん奇麗な化け物さ」

その瞬間、毛玉はぐえっと奇妙な声を上げて体毛をふさふさと散らし、次の瞬間にはしんなりとしていた。ヒミコがどういうものだったのかは、わからない。けれど、僕をここまで連れてきてくれたことには感謝していいと思った。

「君のことは、嫌いじゃなかったんだよ・・・」

そう言って、これと似たようなことを誰かに言った気がした。そうだ。裕子さんだ。ヒミコは裕子さんの屋敷に閉じこめられていた。今になって思えば、ヒミコは裕子さんの純粋じゃない部分だったのかもしれない。裕子さんは純粋を愛していた。だけれど、人はそう長く純粋ではいられない。すぐに俗世間に塗れて汚くなってしまう。それを恐れて彼女は僕を屋敷の中に隔離した。けれど、裕子さんは普通の人間だったから、姉さんから分裂したどこまでも純粋な青の化身である僕とは違って、どんなに目を背けたっていやなものが湧いてきたのだろう。憎しみとか、悲しみとか、怒りとか。そういうものを裕子さんは嫌って、そっと自分から切り離して封印していたのだろう。それは溜まっていくにつれて、ひとつの人格を持った。ヒミコという、いつも口汚く罵って自分の娯楽や快楽のために動いていた、もうひとつの人格・・・。そうなると、僕はあの屋敷を離れてからもずっと裕子さんのそばにいたということになる。そして、今度こそ彼女を葬ったのだ。

地面に、ヒミコの毛が落ちていた。転々と道を指し示すように続いている。これを辿れば、姉さんに会えるという。僕はゆっくりと毛を辿って歩き始めた。毛の道は、海へと続いていた。まさか姉は先に海に溶けてしまっているのではと不安になったが、毛は海岸線で波に沿うように続いていた。ひたすらに足を動かしていると、大きな崖につきあたった。崖は下から見上げる僕を押しつぶそうとするかのように高く、重々しく、どこか神々しかった。姉に近づいているという確信が湧いてきた。先ほどより歩調を速める。毛の道は崖の中へと入り込んでいた。ごつごつとした岩を必死に上る。手が擦り?けて、青い血がとろとろと流れた。何度か落ちそうになったけれど、あともう少しで姉に会えると思うと決して辛くはなかった。崖を登りきると、そこには小さな祠があった。
祠は古いもので、潮風にがさがさになった木材のようなものでてきていた。扉が薄く開いていて、そこに水が備えられているのを見つける。食器はこの祠とは不釣り合いにぴかぴかしていたから、世話をされていないというわけではないらしい。毛束は、祠の前でぐしゃりと丸まって途切れていた。祠の前に立つ。どうしてか、そのときに悲しみを感じた。不意に涙が零れてしまいそうになるほどの悲しい感情。けれど、そんなことには構っていられない。僕は扉の隙間に手を差し込み、勢いよく開いた。
祠の手前には供え物を置くためのものらしい台があった。なのにそこには先ほどから見える水の入ったコップの他には何も置かれていない。そして、その奥は明かりの射さない暗い小部屋のようなものがあった。鉄の太い柱が何本も上から下へと通っている。これと同じようなものがくるくるの家の窓にあった。くるくるは逃げ出さないように厳重に“管理”されていた。となると、この小部屋は逃げ出さないために作られているのだろうか。

その奥で、何かが動いた。

明かりが入ってこないのでよく見えない。水の入った食器を倒すようにして台に登り、鉄格子の向こうをじっと見つめる。青い影が身じろぎした。ふるふると首を振っているようにも見える。人間らしい。だんだん暗闇に目が慣れてくると、その人の様子が次第にはっきりしてきた。僕ははっと驚いて目を見開く。

その人は青かった。だらりと伸びて顔を覆い隠す、足元でとぐろを巻く長い髪も、一糸まとわぬその肌も、そして、髪の奥からちらちらと見える瞳も。すべてが、他の人間たちのくすんだ不完全な青ではなく、純粋で透明な青色だった。恰好こそぼろぼろで汚れているけれど、まるで、いつかのホウイチの絵に僕が手を加えたあの絵のように。
人影はそっと細長い指を伸ばして砂まみれの地面に文字を書いた。言葉はまったく読めなかったはずなのに、そのときばかりはすらすらと読むことができた。

『アナタハ ダレ』

「・・・神様の弟」

『マア ヒトナミハズレタビボウハ カミサマノチヲヒイテイルカラカシラ』

「僕は人間だ」

『カミサマノオトウトナノニ』

「違う」

暗がりの中で、青い人影が少しだけ身じろぎした。瞳の奥が熱を持っていく。

「違う。姉さんだけ、神様だった。姉さんは奇麗で、虫一匹殺せないくらい優しくて、どうして生きていられるのかわからないくらい細かった。手を引いて、人間の僕ですら天使に変えてしまえた。だけど、そのまま僕を置いて消えてしまった。布を巻いた手も、長い髪も、優しくて美しい声も、全部覚えてるよ。姉さんのすべてが大好きだった。僕はいつだって姉さんのことを考えていた。ぶよぶよの男や、足のない女や、耳のない女、頭がおかしくなった女たちを抱きながらも、ずっと、奇麗な姉さんのことだけを。姉さんから分裂して生まれて、いつかは姉さんと一緒に海に溶けてしまえたらいいと。ねえ、そうなんだよ、姉さん。僕だよ。帰ってきたんだ。ねえ、名前を呼んでよ。あなたの弟だ。いつだって一緒にいた。僕には何も見えていなかったけど、わかるんだよ。名前を呼んでよ、姉さん。僕の名前を!」

気がついたら僕は祠にすがりついてぐずぐずに泣き濡れていた。姉さんに会いたかった。ずっとずっと、姉さんのことだけを想っていた。僕の世界はいつまでたっても姉さんを中心に回り続けるし、姉さんだけいればいい。僕と姉さんの、ふたりだけいれば。姉さん。僕の大切な姉さん。

鉄格子の向こう側の人影はしばらく動かなかったけれど、やがてそっと指を動かした。

『ナニヲイッテイルノ アナタノオネエサンハ コンナハダノイロガ アオイ ヒトデスカ』

「僕には、みんな、青色に見えるよ。でもその中で、あなたがいちばん奇麗な青だ」

彼女は顔を上げた。僕にそっくりな色の青い瞳がゆらゆらと揺れている。





不意に背後で音がした。ブルー・ブルー・ブルーと呼ぶ声。いつか、この町を出た日に聞いた。そして僕たちの家の跡にも彫られていた言葉。ブルー・ブルー・ブルー。目の前の彼女が震えだす。声は近づいてくる。
そのとき、すべてを理解した。姉さんは、本当に神だったのだ。この町の守り神。それは彼女の体の色が美しい青色であるからかもしれないし、他の理由があるのかもしれないけれど、とにかく彼女は神だったのだ。そうして、毎日ここで祈っている。海しか見えないこの祠の中に閉じ込められて。僕が何度も夢で見た姉さんは本当に祈っていた。この町のことを。そうして、神からは邪念を取り払わなくてはならない。姉さんをここに閉じ込めるには、姉さんが大事に育てている弟の存在はこの町の人々にとって邪魔だったのだ。だから、消そうとした。頑丈で重い扉に封印された、金持ちの男のもとへ。一生を裕福なままで過ごせるような大金を置いて。彼は、いや、彼女は、僕のような美しいものを手に入れられたのだから大喜びだったに違いない。そうして、姉さんは僕の手を放したのだ。決して放すことないと思っていたものを。

僕の心が怒りに包まれた。僕の姉さんを閉じ込め、そして祈りに専念させるために僕を引き離した。僕の姉さんなのに。もう二度と、離すものか。

僕は祠の古びた木を力任せに引き剥がし、彼女の青い手を引いて走り出した。背後から、ブルー! ブルー! と怒号が聞こえる。姉さんと一緒にどこまでも逃げる。本当はこの町の人間をすべて殺してやろうと思ったけれど、姉さんは殺生を好まなかったから、姉さんに免じて許すことにしたのだ。それに、化け物は絶対に幸せにならない。ヒミコの言葉だ。最後の最後に、僕は裕子さんに従ってみようという気になった。姉さんが神だ。それならば、もう神にも化け物にもなる必要はない。ただ姉さんの弟である、それだけでいい。

知っている? 姉さん。あなたの肌が青くてもそうでなくても、僕のこのガラス玉の目は、すべてを青色に見せるから、もう姉さんは普通の人と変わりない、僕の大切な姉さんになる。

そして今、僕は姉を連れて飛ぶ。

長い年月のうちに、僕は少し汚れてしまった。肉をたくさん食べたし、何人もの女と寝た。それでも、いちばんは姉さんだけだから。今度こそ、一緒に海に溶けてしまうまで、海水を飲んで、ずっと――





――啓輔くん、行こう。

懐かしい声がした。急に繋がれた手から体が軽くなる。ふわりと、町を見下ろすように高く跳躍。そうだ。いつだって、姉は僕の神様だった。










目の前に広がるのは一面の青。

そのとき僕は確かに、それを青だと感じたのだ。




















BLUE BLUE BLUE