橋下川心愛という名前はどうかと、雪原交嘴は思う。もともと彼は綾だの沙耶だの、そこはかとなくはかない女らしい名前を好む。だから心愛などという西洋かぶれの当て字名前はひどく苦手だと思った。心愛という名前だけは、好きになれない。だから交嘴は橋下川と苗字を呼ぶのだが、それもまたひどくどきどきする。なんと誤解を招きやすい苗字なのだと内心舌打ちをするが、彼女が育った孤児院でつけられた名前なのだと言われればもう何も言えなくなる。何のひねりもなく橋の下で拾ったから、なのだそうだ。ひどい話である。
化学準備室のドアノブがくるりと回って、そこからひとりの女子が顔を出した。放課後に尋ねてくる女子なんて、顔を見なくてもわかる。声を聞かなくてもわかる。交嘴にとって、そういう女なのだ、橋下川心愛は。
「うむ、先生。申し訳ない。今日は教室の清掃がござって、少々時間をとられ申した」
交嘴は何も返さない。マグに入れたコーヒーをひとくちすする。
橋下川はくるりとテーブルを回りこむようにして交嘴の向かい側に鞄を置き陣取ると、そそくさと器具入れを探り始めた。出てきたのは、ビーカー。しかし普通のそれではない。注ぎ口たる突き出た部分には黄色のマジックで装飾が施されており、ビーカー本体のほうにも目らしき黒い点がふたつ書かれている。橋下川いわく、「鳥ビーカー」なのだそうだ。
ちらりと視線だけを上げる交嘴には構わず、橋下川は慣れた手つきで奥の戸棚を開け、小ぶりの袋を取り出す。袋の中身をビーカーにあける。茶色い粉末。鼻歌交じりに橋下川がポットのお湯をビーカーに注ぎ始めたときに、ようやく交嘴は口を開いた。
「・・・ねえ、君さ。それ、何度も言うようだけれど、備品だから」
「存じており申す。そしてこのココアは雪原先生の私物だということも」
橋下川はにっこりと袋を振ってみせた。
橋下川は、ひどく目立つ。
ひとつにはその派手な容姿がある。大きな目、赤いくちびる、さらさらの黒髪に白い肌は芸能人かと思うほどに華やいでいて、町でスカウトに引っかかったことも一度や二度ではないという。しかし、橋下川がひとことしゃべれば、スカウトマンたちは一様に苦笑いを浮かべて彼女の前からいなくなる。というのも、橋下川が目立つもうひとつの要因――侍言葉のせいだ。わざとではなく、本当に口癖として使っているらしい。しかしここまで変だと逆に嫌おうという気すら無くなるのかはたまた顔が綺麗だからか、いじめられているなんてことはなく、のびのびと生活を送っている。
そして橋下川は、なぜか交嘴がいるこの化学準備室に毎日顔を覗かせるのだ。そして、ココアを飲む。
「それで、本日は拙者がその当番だったのでござるがな、どうにも忘れてしまったようで、かたじけなくも鈴木くんのノートを見せてもらったのでござるよ」
ココアを飲みながら、橋下川はよくしゃべる。その内容は授業中に起きたこと、昼休みに起きたこと、放課後ここへ来るまでに起きたこと、などなど。決して、学校の中であったこと以外は語ろうとしない。そのことに交嘴も気づいてはいるのだが、何も聞けないでいる。彼女の、世界は、わからない。下手に手を出すと大きな過ちを犯してしまいそうで、けれど突き放すことなどできやしない。ただただ半分聞き流しつつも学校内でのあらゆる起承転結に耳を傾けているのである。橋下川の話は止まることを知らない川の流れのようで、その日いちにちぽっきりの報告をしているにもかかわらず、尽きることがない。つめたくなったコーヒーをマグの中で転がしながら、やはり、彼女の世界はわからない、と交嘴はひとりごちた。彼女には、きっと世の中が自分と違うように見えているのだろう。まったく、難儀なことである。交嘴は基本的に世界を灰色に見ている斜に構えた人間なので、橋下川のことは異星人に感じる。生まれたばかりの赤ちゃんは異星人に似ていると聞くが、そういうことなのだろうか。苦々しいコーヒーをすする。まったく、自分に似た人間とは思えない。
下校を促すチャイムが鳴った。橋下川ははっとしたように腰を上げる。
「下校でござるな。それでは先生、また明日」
「明日も、学校に来るつもり。僕はおろか、誰もいないと思うけど」
「・・・・・・おお、そうでござったな! 明日は土曜日でござった」
はきはきと、快活に笑いながら、橋下川は帰宅の準備を整える。もう冬だというのに、マフラーや手袋ひとつせずに、見ている交嘴にとっては寒々しい。そして化学準備室のドアを開けて、交嘴に「さようなら」と礼儀正しく挨拶をして、帰っていった。このあと、橋下川はまっすぐに家に帰って、その途中でまたスカウトにつかまって、妙ちきりんな侍言葉で追い払って、そして、施設に。土曜日も日曜日も、ずっといるのだろう。橋下川は見た目が派手だ。言葉遣いも変だ。けれど、ひっそりと生きている。学校と施設を往復するだけ。交嘴は苦々しく、薄くため息を吐く。彼女の世界は、わからない。