02 化学教師の憂鬱

「雪原先生って、お子さんいらっしゃるんですか?」

帰宅途中でばったり出くわした女性教師は、興味津々なのを隠しきれない表情でそう聞いてきた。教師になってから二年目の彼女は、男性同期の中ではなかなか評判が良かった。確かに栗色の髪にくりっとした目は愛らしいつくりだが、交嘴には彼女をそういう目で見るつもりはまったくなかった。

「妻もいませんよ、うちには」

薄く笑ってみせる。女性教師は驚いたように目を見開いた。

「ええ、本当ですか? 雪原先生はかっこいいから絶対に結婚していると思ったのに」

こういう話題は、苦手だ。

交喙は女にばれないように息を吐いた。昔から整った容姿のせいで女性にちやほやされてきたことはわかっているし、わかっていないふりをするのは傲慢だとも思っている。しかし、その手の話題を振られることに苦痛を感じていた。若いころにひとしきり酸いも甘いも体験してしまったせいか、妙に交嘴には冷めた部分があった。

女はしつこく食い下がる。

「でも、おつきあいしている人はいるんじゃありません? 雪原先生みたいな人、みんな放っておきませんよ」

脳裏に、ちらりと橋下川の姿が浮かんだ。一度も見たことがないというのに、なぜか橋下川は施設の与えられた小部屋の隅で小さく膝を抱えていた。休日の橋下川心愛。親のいないひとりの娘。

「・・・いませんよ」

女の目が輝いた気がした。何か話しかけれられる前に、「それではここで」と足早に立ち去る。もう、言い寄られるのは、嫌なのだ。以前から彼女が自分に何らかの意味を込めた目線を送っているのはわかっていた。交嘴は家の前で立ち止まり、ため息をこぼす。

想像の橋下川の姿が、まだちらついていた。




「君、いつも自分ばかり飲んでいて、後ろめたくないのかい?」

橋下川は、えっという形で口を開き、それからああ、と大きく息を吐いた。

「なんだ、先生も飲みたかったのでござるか! それならそうと早く言ってくれればよいものを」

「ちょっと、勘違いしないでくれるかな。ただ僕は材料費や備品を提供してあげているというのに君ばかり飲んでいるのは不公平だと言ったんだ」

「はいはい。しばしお待ちを」

交嘴の抗議を聞いているのかいないのか、橋下川はにこにこと笑いながら準備室の戸棚たちの間へ消えた。こうしているとどちらが子供でどちらが大人かわからなくなる。交嘴は小さく舌打ちをした。どういうわけか、橋下川心愛の前では感情がむき出しになりやすくなってしまう。

戻ってきた橋下川が嬉しそうに片手に持っていたのは、三角フラスコだった。

「・・・君、それは嫌がらせかな」

今度の質問は誰の目から見てもはっきりわかるほどに無視をして、橋下川は細い口の中に器用に茶色い粉を落とし込んでいく。薬缶のお湯が沸いて、それがとぽとぽとフラスコの中に注がれていくのを、交嘴は遠い目で見ていた。

「君のお母さんは、どうして心愛なんて名前をつけたのだろうね」

言って、それから、しまったと思った。この少女に母親の話をするなんて思いやりがないにもほどがある。自ら犯した失態にくちびるを噛みしめた交嘴に、橋下川はにっこりと邪気のない笑顔で応じた。

「きっと、ココアが好きであったのでござろう」

・・・違いない。

交嘴は項垂れた。自分のことを罵りたかった。橋下川の母親はどんな気持ちで生まれたばかりの子供を捨てたのだろう。中絶という道はなかったのか。――いや、こうして橋下川は生まれて、自分の名前と同じ飲み物を飲み、笑っている。両親がいない状態で生きるよりはましなのではという考えは彼女の笑顔の前では無効だった。こうして、橋下川について考えるたびに交嘴は足場をなくしていく。