03 父親の愛

「ああ、雪原先生」

また例の女性教師に呼び止められた。なかばうんざりとしながら交嘴は振り返る。

「今日、お暇ですか? よければ一緒にお食事に行きません?」

「・・・いえ、僕は」

「橋下川さんのことでご相談したいことが」

反射的に交嘴は顔を上げた。そういえばこの女は橋下川の担任だったのだ。そこまで思い至って、今の自分の行動に苦笑が漏れそうになる。まるで親のようだ。辞書か何かで自分の弱点を引けば、そこにはきっと「橋下川心愛」の名前があるに違いない。

何はともあれ、女性教師とふたりで食事をすることになってしまった。場所は落ち着いた空気のフランス料理屋で、まるでそこに座っていると少し年の離れた恋人のようだ。とはいえ、交嘴もまだ三十代前半なのだが。

「雪原先生って、橋下川さんと仲がいいですよね」

「・・・仲がいい、というほどのものでは。いつの間にか準備室に入り浸るようになっていて」

そうだった。大して接触していないはずなのに、橋下川は気がつけば化学準備室の常連になっていた。それが当たり前であるかのように。

「どんなことをお話しになっているんですか?」

「僕はあまり話しません。向こうが一方的に話している感じです」

「へえ。先生のことが好きなのかしら」

ちらりと交嘴は女性教師を盗み見た。彼女はにこにことほほ笑んでいるが、どこかしら目に冷たいものを感じさせていた。急にぞっと背筋が凍る。この女は、年端もいかぬ女子高校生に嫉妬しているのだ。

「・・・好きというには、あまりに。ただ、まあ、準備室を居心地良くは感じているのかも」

「へえ、でも、先生って女子生徒にも人気あるの、知ってます? 超然とした空気を放っているけれど、案外橋下川さんも先生に想いを寄せているのかもしれませんね」

そういう安い考えで橋下川を考えないでほしかった。交嘴の眉間には知らずの内に皺が寄る。しかしそれには気づいていない様子で、女性教師は次々と話し続けた。

「そういえば、橋下川さんって施設育ちなのにどうして高校にいるのかと思って調べてみたんですけれど」

あけすけなもの言いに眉の皺が深くなる。

「どうも、おととしから橋下川さん宛に教育費が送られてくるみたいなんです。それもずいぶん巨額の。だから高校に通うことができたんだって施設の人が言っていました。本当なら私立に行ったって大丈夫な金額だったらしいんですけれど、橋下川さんが施設に使ってくれって言ったらしいですよ。びっくりですよね」

「・・・はあ」

力なく交嘴は返事を返した。いかにも橋下川らしい振る舞いだが、せっかく自由に使える金が転がり込んできたというのに他人に譲り渡すとは、もったいないことだと思った。そこまで考えて、施設の人間というのは彼女にとっては家族同然なのだということに思い至る。この世でいちばん橋下川に近いところにいるのは、もちろん交嘴ではなく、施設の人間なのだ。そう考えると、少しそら寂しいような気がした。




二件目への誘いを断って、歩いて帰る。店から交嘴の家までは随分と距離があるのだが、タクシーを拾おうと気軽には思えなかった。往々にして交嘴は貧乏である。

冬の肌を刺すような涼しさに、マフラーに顔をうずめるようにして歩いていると、先ほどの会話が思い出された。施設に送られてくる大量の金。橋下川への養育費。それを送るとなると、それは誰なのだろう。

父親だろうか。

交嘴は路上に立ちつくし、じっと木枯らしに耐えた。街並みはもうすぐ迎えるクリスマスに向けて大騒ぎだ。ちかちかとイルミネーションが輝く中、交嘴ひとりが動かずにただじっとしていた。




夢を見た。橋下川の父親と対峙している夢だ。交嘴は戸惑いながらも、毎年巨額の養育費を送るほどの余裕がありながらどうして橋下川を迎えに来ないと罵る。もう彼女も高校生だ。今まで生まれ育った環境が変わるのも酷だが、それでもやっぱり親がいてくれたほうがいいに決まっている。彼女のことが大切じゃないのか。かわいくないのか。親としてあなたは最悪なのではないかと。

父親の反応は冷静だった。交嘴の抗議をすべて聞き入れ、それから、

――あなたは心愛のなんなのだ。

と、聞いた。

交嘴は言葉を失った。僕は、彼女の、彼女の――

そこで、目が覚めた。




その日は珍しく昼休みに橋下川が来た。“家”で作ってもらったらしいサンドイッチをほおばりながら、交嘴の昼食を覗き込む。

「ほほう、先生はあんパンひとつと牛乳でござるか。さながら張り込みの刑事のようでござるな」

「張り込んでないし僕は教師だ。そんないらない知識どこで覚えたの」

「テレビで」

「・・・・・・」予想以上に彼女はハイカラだ。

「しかしながら、意外でござる」

橋下川はサンドイッチを飲み込むと、そのくりくりした目で交嘴を見上げた。

「先生はもっとしっかりした飯を食べているかと思っており申した」

「コンビニ弁当とか?」

余談だが交嘴がコンビニ弁当を食べない理由は、値段が張ることと、苦手なにんじんの甘煮が出てくるからだ。しかし橋下川はふるふると首を振って、

「奥方に作ってもらったものを食べているのかと」

と言った。交嘴の動きが止まる。

「・・・僕に配偶者がいると思っていたの?」

「いないのでござるか? 先生は見た目によらず妙齢であるから結婚しているものとばかり思っており申したが」

きょとんと橋下川は言い返した。

「なれば、そうでござるな、国語のあの若い先生、名前は忘れてしまい申したが、あの栗色のふわふわした髪の毛の先生と結婚なさるとよい! 彼女は学内の噂だと先生に好意を寄せていると――」

「黙れ」

その低い声に、交嘴自身も驚いた。慌てて顔を上げ、橋下川の顔を覗く。橋下川は傷ついてはいないようだった。しかし目を真ん丸にしてこちらを見ている。交嘴は授業中であれどんな時であれ、ほとんど怒らない。そこが生徒からの人気を増幅させているところもあるのだが。自分の失言だと気づき、交嘴は一字一句を強調するようにゆっくりと話した。

「・・・僕には、あの人はもったいない。あの人とは結婚しないよ」

納得したのかどうかはわからないが、橋下川はむう、と押し黙り、くるりと踵を返して自分の椅子へと戻った。食べかけのサンドイッチにまた手をつける。

橋下川は完全なる善意からそう言ったのだ。交嘴が結婚してくれればいいと。しかし、交嘴はそうは望んでいない。貧乏で、もう一人を養う余力なんて残っていないのだ。それに何より、あの女とは添い遂げたくはない。

あんパンを牛乳で喉の奥に流し込み、交嘴は薄く息を吐く。

引っ越しの準備が昨日整った。