04 クリスマス前日

新しい部屋は2LDKで、学校からは少し離れているが、駅の近くにあった。ある程度小奇麗で、防犯設備がしっかりしていて、学校からの距離も近く、リビングキッチンの他に必ず二部屋あること。これが交嘴の条件だった。ちょうどいい物件を探すのには手間取ったが、これでようやく念願叶ったわけである。段ボールたちを部屋に運び入れて、もう一度部屋全体を見回す。こだわっただけあって、なかなかいい部屋だと思った。もともと交嘴の家には物がほとんどなかったため、引っ越しは短時間で終わった。片付いた部屋をあとに、交嘴は二部屋あるうちのひとつの洋室のドアを開けた。そこには何も置かれていなかった。頷いて、洋室を出る。準備はできた。あの部屋は、あと少しで持ち主を手に入れる。




高校はクリスマスの前日に終業式を迎えた。どこそこでクリスマスパーティーをやろうと声が上がっている。生徒に人気だとあの女性教師に指摘されたとおり、交嘴も何人かから招待をされた。しかしすべて仕事があるからと断る。本当は仕事なんてない。しかし交嘴はそういうにぎにぎしい場所が苦手だった。

「本当は仕事とか言って、恋人とのデートなんじゃないの?」

「あっ、もしかして相手は国語のあの先生じゃ」

わっと教室が湧く。デート、デート、とはやしたてる生徒たちに交嘴は違うよとは言ってみたものの、誰も信じてくれていないようだった。どうにかこうにか切り抜け、職員室への廊下を歩いていると、今度は後ろから声をかけられた。

「先生、今日一緒にお食事に行きません? いいお店を見つけたんです」

くだんの女性教師である。形だけはかしこまっているが、もう交嘴とは恋人であるといわんばかりの口調である。もしかしたら自分のクラスであることないこと言ったんじゃないかと交嘴は眉をひそめた。彼女のクラスには橋下川がいるのだ。

「申し訳ありませんが、今日は仕事が残っているので・・・」

「あら、今日くらい仕事を休んだっていいのに。先生は真面目ですね」

彼女はかわいらしく小首をかしげて見せた。

「でも今日はクリスマス・イブですよ? 一人じゃ――」

「・・・橋下川はもう帰りましたか?」

話題をすばやくそらす。女性教師は突然のことにぱっちりとした目を何回かまばたかせて、「ええ、まあ」と答えた。

「クラスメイトに誘われたりは」

「されてないと思いますよ。だって橋下川さんには昔から声をかける人、いませんから」

「・・・・・・は?」

「知らなかったんですか? ですから、橋下川さんは無視されているんですよ。うちのクラスで」

交嘴は呆然と口を開けた。交嘴は一度も橋下川を受け持ったことはない。それでもいつの間にか橋下川は化学準備室にいて、交嘴にさまざまなことを話した。学校で起きた起承転結。悲喜こもごも。七転び八起き。・・・それはもう、たくさんの。彼女の話の中ではクラスメイトたちはみな明るく親切で、ときどきバカをやって、笑いあっているという。

『それで、本日は拙者がその当番だったのでござるがな、どうにも忘れてしまったようで、かたじけなくも鈴木くんのノートを見せてもらったのでござるよ』

無視。好きの反対は無関心だという。だとすれば、その無関心の中央で、橋下川は。

「――・・・あなたは、それを黙って見過ごしていたわけですか? 教師として、最低の人間だ!」

怒鳴るなり、交嘴は勢いよく駆け出した。後ろで女性教師がなにか言っていたが、もうそんなことは気にしていられない。コートも着ていないノースリーブのセーターは冬の冷たい風をまっすぐに肌に伝えてくる。いつだって、橋下川は楽しそうだったのだ。変な話し方で、それでも誰かをけなすようなことだけは絶対にしなかった。毎日きらきら光る作り話をひっさげて化学準備室に来る、橋下川はどういう気持ちだったのだろう。呆れるやら、腹が立つやら、・・・いとおしいやらで言葉にならない。ただただ鉄砲玉のように走る。

施設の手前に、小柄な影が見えた。悲鳴を上げる脇腹にムチを打って、交嘴は橋下川の肩を強くつかんだ。

橋下川が振り返る。

やっぱり、彼女の世界はわからない。どうしたらそんな風に生きられるのか。どうしたらそんな風に育つのか。自分と似た人間だとは、とうてい思えない。

だが、確信はあった。それはもう理由とか意味とかではなくて、本能のようなもの。この瞬間だけ、交嘴は動物だった。

「遅れてごめんね。迎えに来たよ」

橋下川はしばらく押し黙り、それから交嘴のほうへ体を向けた。

「こんなクリスマス・イブの夜に。馬鹿でござるなあ、先生は」

「僕だって、わざわざこの日にしようとは思っていなかったさ。本当は高校卒業まで待つつもりだったんだけど。ただもう時間がないと思って」

「ばれたんでござるな。まあ最初から隠してはおらなんだが。あの先生が漏らしでもなさったのでござろうか」

「うん。聞いたらあっさりと教えてくれたよ。いかんせん君の話によると僕に好意を寄せているらしいからね」

「まさか生徒を追いかけて着の身着のまま飛び出すとは思いもせずに」

「どうして黙っていたんだ」

「いらぬ心配などかけても阿呆なだけでござろう。それに、そちらも隠し事をしておられたのでござるから、拙者ばかり責めるのもひどいと思うのだが」

「君にはばれていたみたいだけれど」

「先生がわかりやすすぎるのでござるよ」

「それも、そうなのかもしれない。・・・橋下川」

「この場で、苗字はやめていただきとうござる」

「心愛」

「はい」

「・・・うちに来て。一緒に暮らそう」

いつの間にか、寒さを感じなくなっていた。体の先までしんと冷え切り、なのに中心はぽかぽかと暖かい。妙な浮遊感。これと同じ感覚を、一度だけ味わったことがある。あの人と一生を添い遂げようと思った。交嘴は本気だった。なのに、あの人は子供を産み落としたあと、忽然と姿を消したのだ。その人は寒がりで、いつでもココアを飲んでいた。娘が生まれたら、きっとその名前をつけると。

橋下川心愛はゆっくりと、かたく結ばれたものがほどけるように笑った。

「――大事にしてくださいね、おとうさん」

交嘴は驚いて目を丸くした。例の侍言葉が、消えている。