橋下川という生徒は転向することになったと彼女の担任に知らせが行ったのは、お年賀から少し過ぎたころだった。引き取り手が現れたのだという。橋下川の父親と名乗るその人物は、今まで娘を育ててくれた礼として先行き三年分の“彼女の養育費”代を施設に贈ったそうだ。父親と名乗った赤の他人ではないかと彼女は邪推する。あの顔だちだ、パトロンができてもおかしくはない。施設に贈られた子供に親が見つかるなんてことは滅多にないのだから。それでも、親が見つかって転校できたというのはいいことだと思った。受け持ったばかりのクラスで陰湿ないじめが起きていることに気づいたのはちょうど二ヶ月前だ。 クラス中に漂う不穏な空気に怯え、初めての担任でどうしたらいいのかわからなかった。根本的解決にはならないが、彼女がいなくなることは何らかの効果をもたらすだろう。
しかし、橋下川がいなくなってしまうと、自分が懸想しているあの化学教師はどうなるのかと少し心配する。彼はどことなく橋下川に顔が似ている。そこにいなくなった父の面影を感じ、橋下川は化学準備室に入りびたっていたのかもしれない。最後に彼を見たのはクリスマス・イブ、職員室前の廊下だ。前々から彼女は橋下川と彼は恋愛関係にあるのではないかと考えていた。しかし、あの日見せた必死な表情、あれは恋人というよりも父親といったほうが合っているような気がした。そんな彼が、本物の父親に橋下川を連れて行かれたとき、はたしてどんな反応をするのだろう。
そして今日は、始業式だ。
ホームルームが終わったらしく、職員室に入ってきたすらりとした長身を見つけ、彼女は駆け寄る。前回別れたときがああだから、声をかけるのはためらわれたが、勇気を振り絞ってあいさつする。
「あけましておめでとうございます、雪原先生」
「・・・ああ。おめでとうございます」
交嘴は普段通りにあいさつを返してきた。そのことにほっと安心する。
いつも耳を覆うくらいに伸ばしてある髪が短く刈り揃えてある。そうなると神経質な文学青年のような空気は薄れ、それでも凛々しい顔立ちは前より際立っている。やっぱり橋下川さんに似ている、と彼女は思う。鼻筋や口元がそっくり。
「髪、お切りになったんですね」
「ああ。ちょっと住環境に変化がありまして」
「へえ。どうなさったんですか?」
交嘴は照れたようにはにかんだ。
「家族が増えまして」
「あら」
彼女は、すばやく頭を働かせた。最近ではペットを家族の一員として接する人が多い。現に彼女もチワワを一匹室内で大切に育てている。彼も動物を飼い始めたのだと思った。
「なるほど。世話は大変ですものね。私も昔は服を引っ張られてよれよれになったりじゅうたんにおしっこされたり、大変でしたから」
交嘴はしばらくぽかんと口を開けていたが、それから小さくうなずいて、「そうですね」と言った。それから、恥ずかしそうに短くなった頭をかく。
「とてもおてんばで。ひとりだった時とはまるで勝手が違って、うまくいかないことも多くて。それでも、やっぱり、かわいいと思うんですよ」
その表情に息を飲む。彼は今まで見たことがないくらい幸せそうな顔をしていた。その体全部から、“新しい家族”への愛がにじみ出ているようだ。
「ええ。愛情さえあれば大丈夫ですから。だんだん、慣れていけばいいんです」
「そうですね。精一杯あたたかく見守っていってやろうかと思います」
にっこりと笑う交嘴に彼女は再び驚いた。なんだか今日の交嘴は様子が違う。今まで覆ってきた固い皮がぼろりと剥がれたようだ。それがどういう皮なのかは、彼女にはわからなかったが。交嘴の家に来たものが、彼の固まった心を溶かしてくれたらしい。彼女はなぜか安心して、ほっと息を吐きながら目を細めた。
「――では、失礼」
そう言うとすばやく交嘴は体を返し、コートを着ながら職員室を出ていった。残された彼女は何をするでもなくぶらぶらと校舎をねり歩き、化学準備室を見つける。ここで橋下川と交嘴はいったい何をやっていたのだろう。そっと覗き込むと、持ち主の性格を表すかのようにきっちりと整理された戸棚の向こう、本が大量に置かれた事務机の上に、ひとつだけビーカーが置かれていた。誘われるように彼女は机の前に立つ。気になるのは、そのビーカーは普通ではなく、注ぎ口たる突き出た部分には黄色のマジックで装飾が施されており、ビーカー本体のほうにも目らしき黒い点がふたつ書かれているところだ。そして、隣にはココアの粉が寄り添うように置かれている。
「・・・ここあ」
これが、あの二人の間にあったものなのだ。雪原交嘴と橋下川心愛を結ぶ、細いけれど確かな線。色気なんてどこにもない。ビーカーに落書きをしてはしゃぐひとりの少女と、それを咎めながらもそっと見守るひとりの男。そんな二人も、それに嫉妬していた自分もおかしくて、彼女はぷっと吹き出した。まだ冬の太陽は早く沈み、外は茜色に染まっていく。化学準備室の戸棚たちや妙なビーカーや、彼女の顔さえ。
交嘴はコートを着て鞄を肩にかけ、校門を出ようというところだった。そこへ、小さな人影が飛びつく。交嘴は慌てて体勢を立て直し、ぱっぱっと小さな影を追い払うように手を振った。しかしそんなことにはおかまいなしに、小さな影は交嘴のまわりをくるくると回る。まるで、子犬のように。
交嘴はむっとした顔を隠しもせずに目の前の少女をねめつける。
「君、なんでここにいるわけ。手続きは昨日済ませたんだし、あんまりこの近辺に顔を見せてもしょうがないだろう」
「でも、これで最後だから。お別れをしておきたくて」
小さな影――心愛が答えた。交嘴はしばらく動きを止めて、しょうがないというように頭を振る。
「君らしいといえば、そうかもしれないな。わかったよ。今日は帰りに外食にでも行こうか」
「ほんとに? やった!」
喜び跳ね回る心愛に、交嘴は目を細めた。先ほど女性教師の目の前でやったあの表情である。そうして、ゆっくりと歩き出す。心愛もその後を追って、とことこと足音をたててついてくる。
あの人が消えてから、交嘴は必死に母娘の行方を追った。母親のほうは結局見つかることがなかったが、孤児院に「心愛」と名付けられた子供がいると聞いてこっそり見に行った。あの人の子供に、間違いなかった。目元が呆れるくらいによく似ている。
彼女にどうして自分が父親だとわかったのか、と聞いたことがある。それに関する彼女の答えはあっけらかんとしていた。
「最初に見たときに思ったの。この人がわたしのお父さんだって」
どうやら彼女は交嘴の何倍も野生の勘豊富だったらしい。
そして、なぜか彼女はぴたりと侍言葉を使わなくなった。本人も無意識に標準語を話しているようで、ときどきびっくりした顔でいるのを見かける。もしかしたら、彼女は理由が欲しかったのかもしれない、と交嘴は思う。クラスで行われるいじめの原因が自分ではどうしようもない「両親がいないこと」であると知るのを避けるため、彼女は風変わりなキャラクターを演じざるを得なかったのではないか、と。そう思うと胸の奥が痛み、今まであげることのできなかった愛情をこれからは一心に注いでやりたいと思うのだった。
腕に、娘がしがみつく。
「お父さん、焼肉が食べたいでござる」
「ふん、贅沢なやつ、でござる」
交嘴がそう返すと、心愛は一瞬驚きに目を見開いて、それから、満面の笑みを浮かべた。